『大日本帝國海軍特務艦「関東」の遭難』
「北陸の海難に学ぶ」著吉田清三先輩(神戸高等商船学校<神戸商船大学>卒、海上保安庁巡視船々長、元富山商船高等専門学校教授、生年大正十二年、富山県南礪市福野町出身、御遺族は福光町に在、福光駅前ホテル経営)より抜粋。

 大日本帝國海軍特務艦「関東」の遭難事故は、大正時代に於ける北陸最大の艦船の座礁事故であり、多数の前途有望な若い軍人を失った。そして、地元の婦女子の献身的な救助活動は今も美談として語り継がれている。
 大日本帝國海軍横須賀所属の特務艦「関東」は大正十三年十二月九日(1924年)、瀬戸内海の呉港から海軍通信学校や海軍水雷学校を卒業したばかりの若い軍人、57名を乗せ、日本海の舞鶴港へ向かっていた。航路は関門海峡を通り日本海に出て、山口県の青海島沖、浜田港沖、島根半島と「隠岐の島」の間を通過して、鳥取県沖、兵庫県沖、丹後半島沖も通過し「舞鶴」へ着く予定であった。
 呉港出港の三日後の十一日は 1003 ミリバールの低気圧が東進し、風力6〜7の西風が吹き、海上は吹雪であった。特務艦「関東」は激しい波と視界不良の中で、行き先を見失い難航すること18時間、目的の舞鶴をはるかに通過して12日午前8時過ぎ、越前岬南の福井県河野村糠海岸の沖合、150メートルの岩礁に乗り上げた。

 特務艦「関東」は、触礁と同時に無線でSOSSave Our Sips、救難信号)を発し、次いで舞鶴に対し「ワレ経ケ崎、西海岸ニ座礁、救助ヲ乞フ」と数回打電したが、機関室に浸水し発電不能となり通信不能となった。荒天の中、遭難を知らせるべく端艇に数名を乗せ、海岸へ向かうが転覆した。しかし、幸い全員、かろうじて海岸へ泳ぎ着いた。その中の2名が地元の糠浦地区の区長の家へ辿り着き、区長はおりしも帰休中の青年兵士に遭難電報の打電を依頼した。青年兵士は6キロメートル離れた山道を必死で河野村郵便局へ走った。そして打電し、河野村郵便局から海軍省へ電報が着いたのは、座礁から約5時間後の午後1時過ぎであった。「特務艦関東福井県南条郡河野村糠海岸ニ座礁ス、救助ヲ乞フ」。特務艦「関東」の乗員は座礁後、再度、遭難の通報と遭難位置を確認するため、端艇で海岸へ上陸しようとした。端艇に10人が乗り込み、手で漕いで岸に向かった。しかし、激しい波と風の為、端艇は破損し、乗員10名は泳いで上陸した。そして、村人に海岸は福井県河野村であると聞き、手旗で特務艦「関東」へ信号を送った。ここで初めて特務艦「関東」は遭難した場所を確認することが出来た。
 次の端艇も海岸近くで転覆、乗っていた富井一等水兵は決死の力泳でやっと岸に泳ぎ着き、持って来ていた二本のロープを岸に上げた。一本は特務艦「関東」と陸をロープで繋ぎ、もう一本は乗員が特務艦「関東」へ戻るのに使った。従って、特務艦「関東」と陸を繋いだのは一本のロープのみであった。

次の端艇は7名の乗員で岸に向かった。しかし、海岸近くでこれまた転覆、乗員7名は海に投げ出され、うち6名はかろうじて海岸へ泳ぎ着いたが、菅野主計兵曹長は波に呑みこまれ、あっと言う間に行方不明となってしまった。厳冬日本海の十二月、越前福井の海である。おそらく、海水温度は一ケタ台である。数分で心臓が停止したものと思われる。この状況を見ていた人が居た。「向瀬みなさん」である。当時八十歳。
「ポカンポカンと流されてゆく兵隊さんがの。こうやって(身振りで)両手を上げて“助けてくれ、助けてくれ”という仕草をしてなさるげの。ほやけど、私等はどうすることも出来ん。その兵隊さんが、ただイトシての。おっかちゃん達は、そこへネマッテ(座り込んで)泣いていたモンです。」(馬田氏が聞いたところによる)菅野主計兵曹長は三日後、ここより3キロメートル先の海岸に、変わり果てた姿で打ち上げられていた。最初の犠牲者である。
 艦長はじめ全乗員は特務艦「関東」を救うため奮闘努力した。しかしながら、やがて特務艦「関東」は士官室後方で折れそうになった。艦長は乗員の生命を救う為、船を捨てることを決意し、重要書類(軍人勅諭、機密文書、海図、停泊日誌、当直記録、信号日誌など)を燃やすよう命令した。そして、全乗員を前甲板に集めた。

艦長の命令で軍艦旗を下した後、艦長は「本艦を捨て、全員、今より退艦する!」と集合整列していた全乗組員に大声で叫んだ。
 傾く特務艦「関東」の甲板上で全乗組員は直立したまま君が代を合唱し、歌い終わり、乗組員は次々に「ざんぶ、ざんぶ」と死の海へ突入した。(東京朝日新聞の記事による)
(生存者、死亡者の状況)
 海防艦「春日」の収容生存者、艦長他、57名、遭難地(海岸)の生存者、54名、生存者合計、111名。乗組員死亡者、96名。(乗組員総計、207名の約半数が死亡した)後日、重傷者1名が死亡し、建てられた慰霊碑には殉職者97名と記されている。
 救助に向かった艦船は、海防艦「春日」、駆逐艦「海風」、同「山風」である。敦賀から救難船「平安丸」も救助に向かったが荒天のため進めず引返した。

 一方、遭難した特務艦「関東」の乗組員の内、最初に上陸した菅原兵曹他の急報で「神土」、「杉山」、「糠浦」の村民は救助に向かった。しかし、村中の男は出稼ぎに出ていて老人と婦女子であった。(出稼ぎは京都、灘など関西方面の酒造りであった)
 この沿岸の村の婦女子は裸になり体温で冷えた乗組員の体を温め、30数名を蘇生させた。一人の乗組員に対し五人がかりであったと言う。ちなみに冷えて凍える人を救うのは温かい人体、特に、女性の裸体が最も効果的と言われる。真冬の日本海では数分で死亡する瀕死の乗組員の救助である。婦女子の思いは、いかばかりであったであろう。「この献身的な救助は後世まで語り継がれることを切望すると共に、また、日本の婦女子、ひいては日本人の誉れとすべきである。」(完)

(参考)
特務艦「関東」の略歴
 デンマークのバーネスキーマンドウエイン造船会社で建造されロシアの船会社に所属した。総トン数、10,100トン。全長、125メートル。レシプロエンジン(蒸気駆動、SLと同じ)2,500馬力。速力、10ノット(時速約18キロ)。日露戦争間近の日露交渉断絶後、旅順港に向かっていたところを日本海軍に拿捕され、改造後、特務艦「関東」と改名、仮装巡洋艦兼工作艦となる。
 この特務艦「関東」遭難の先年の大正十一年八月、巡洋艦「新高」がオホーツク海で荒天のためカムチャッカ半島南端で座礁転覆した事故があり、艦長以下328名が殉職した。ところが、この巡洋艦「新高」の爆破処理をしたのが特務艦「関東」であり、母港の横須賀へ帰港したのが遭難の約四か月前であった。舞鶴に「巡洋艦新高殉職者之墓」があり、その隣に巡洋艦「新高」の葬儀を執行し、同様の運命を辿った「特務艦関東殉職者の碑」が並んで建立されているのは、いかなるめぐり合わせであろうか。以上 (注)「客船タイタニック号の遭難」 「北前船(航路)

「北陸の海難に学ぶ」著者、吉田清三氏の略歴
大正十二年(1923年)富山県南礪市福野町生
昭和十九年(1944年)神戸高等商船学校(神戸商船大学)航海科卒業後、航空母艦、軍艦、客船、商船の航海士。
昭和二十三年(1948年)海上保安庁へ。海難救助、巡視船々長。
昭和三十九年(1964年)富山商船高等専門学校教諭
昭和四十八年(1973年)同校教授(船舶安全工学)昭和六十二年(1987年)同校、定年退官
定年後の役職、同校名誉教授、(社)日本海海難防止協会顧問、(社)海洋会顧問
主たる著書、海難論参考、海難図表集(教本)、富山湾災害総覧、富山湾の海難と寄り回り波、加賀能登海難史年表。
(あとがき)
 私は富山に居た頃、吉田清三先輩と交流があり、この「北陸の海難に学ぶ」の著書は氏より寄贈された。富山岩瀬港で航海訓練所所属の「海王丸U世」が座礁した事件では、氏の福光の私宅へ行き事故の原因はどこにあるかと訊ねたことがある。想像した通り航海訓練所と船長の判断に問題があったとのことであった。この特務艦「関東」の遭難を含め、氏の著書を読んでいれば機関科出身の私にも容易に台風を避けるには「沖」へ出る方が最も安全な避難方法と思える。練習船での経験であるが、台風の通過を待つため、船を風の方向へ向かわせながら、一昼夜、エンジンを全速前進で運転し続けたことがある。津波の来襲にも同じ行動、即ち、「船を全速力で沖に向わせ、津波を正面から乗り切ること」が適切であろう。
 吉田清三先輩とは平成十年頃、お誘いした「環日本海交流」のシンポジュームでお会いしたのが最後である。その時はガンを発病され小康状態であるとのことであった。(合掌) 「日本海学推進機構」(吉田清三名誉教授の講演記録

 ところで、吉田清三著「北陸の海難に学ぶ」によると、九世紀頃より中国東北部の「渤海国」と日本は交流があり、渤海国の船が能登半島までにやって来ていた。松任市の伝説(石川県)によると、漁師の浦島太郎は、日本海で遭難し、渤海国の船に助けられ、首都の東京城(竜宮城)へ連れて行かれ「浦島太郎」は歓待された。しかし、帰りの船が転覆し、能登半島の珠洲へ漂着した。そこから、徒歩で故郷の丹後(京都府)へ行こうとした。しかし、手取川(石川県)のあたりで、渤海国の姫(乙姫)から貰った玉櫛笥(たまくしげ、玉手箱)を開いてしまい浦島太郎は死んだ。その後、丹後より浦島太郎の五人の子供が手取川へやって来て、墓石を置いて帰ったという伝説が石川県松任市にあるとのことである。
(注)全国各地に数多くある「浦島太郎伝説」の中で最も信憑性が高い説と思う。
浦島太郎(万葉集)」へ PROFILE


大正13年12月14日東京朝日新聞

特務艦「関東」の遭難
(福井県河野観光協会
より)

大正13年12月16日福井新聞
(当時の新聞記事「2」)


海王丸U座礁事故於富山岩瀬港

渤海国「東京城」
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