「遊行婦女(うかれめ)」とは

 うかれめ」は、天平時代(一一六五~)の万葉集画像)に、万葉仮名で「遊行婦女」と記されている。「遊行婦女(うかれめ)」とは、宴席に侍り詩歌音曲を奏する云わば芸妓であるが、錚々(そうそう)たる万葉歌人と同席して歌を詠んでいる。それらの歌は万葉歌人と同等、若しくは、優るとも劣らぬ詠みっぷりである。

万葉集には四人の「遊行婦女」が名を残していて、名は、「土師(はにし)」、「蒲生(かまふ)」、「左夫流児(さぶるこ)」、「児嶋(こじま)」である。

 まず、「大伴家持」と「遊行婦女土師(はにし)」の歌である。
(たる)(ひめ)の (うら)()(ふね) 梶間(かぢま)にも 奈良(なら)我家(わぎへ)を (わす)れて(おも)へや
多流比売能 宇良乎許具不祢 可治末尓母 奈良野和芸弊乎 和須礼氐於毛倍也(万葉仮名)右一首 大伴家持(漢文)(巻十八 四〇四八)
 『たるひめの浦を梶で舟を漕いでいても、奈良の我家を忘れられようか。いや忘れられない。』と「大伴家持」が都を懐かしんでいるのに対し「遊行婦女土師」は、
(たる)(ひめ)の (うら)()(ふね) 今日(けふ)()は (たぬ)しく(あそ)べ ()()ぎにせむ
多流比売野 宇良乎許芸都追 介敷乃日波 多努之久安曾敝 移比都支尓勢牟(万葉仮名)右一首 遊行婦女土師(漢文)(巻十八 四〇四七)
 『たるひめの浦を漕ぎ、楽しく遊びましょうね。貴方との今日の思い出を、いついつまでも「語り草」に致しますわ。』「遊行婦女土師」は、「言ひ継ぎにせむ(語り草にします)」と表現している。「語り草にします」とは、今後、何か事ある毎に「遊行婦女」としての私は、『都人(奈良の都の高貴な人)の家持と、歌を和した(歌を交わした)ことを、私達「遊行婦女」の誇りとして、仲間にも子孫にも話したい。』と歌ったのである。

上の二首は、「家持」と「遊行婦女土師」が和した歌であるが、この時、「家持」は、越中(富山県高岡市伏木)へ、単身赴任して二年目であり、「家持」が「奈良の我家」を懐かしんでいるのに対し、「遊行婦女土師」は、「今日は楽しく遊べ」と慰めている。再度述べるが「遊行婦女土師」の「言ひ継ぎにせむ(今日のこの事を人にも話そう!)は「家持」の男心をクスグル。「遊行婦女土師」は歌に長けている。

 次は、「遊行婦女土師」と「家持」が「霍公(ほとと)(ぎす)」の歌会で和する歌、
二上(ふたがみ)の (やま)(こも)れる 霍公(ほとと)(ぎす) (いま)()かぬか (きみ)()かせむ
敷多我美能 夜麻尓許母礼流 保等登芸須 伊麻母奈加奴香 伎美尓伎可勢牟(万葉仮名)右一首 遊行婦女土師作之(漢文)(巻十八 四〇六七)
 「二上山(ふたがみやま)」に隠れている霍公(ほとと)(ぎす)さん、今すぐ鳴いておくれでないかね。かのお方(家持)に、お聞かせしたいわ。』この越中の「二上山(ふたがみやま)」は、奈良の「二上山(にじょうざん)」と同名で、暗に、奈良に住まいする「家持の妻(大嬢)」を、「二上山」を引き合いに出し、『妻の大嬢さん、何なら、奈良から越中(富山)まで来て、夫の「家持」に聞かせるものなら、聞かせてごらんよ。』と、「遊行婦女土師」は「大嬢」と「張り合っている」とも思えるのである。

次は、「家持」が和する歌、一首。
()()かしも 今夜(こよひ)()まむ 霍公(ほとと)(ぎす) ()けむ(あした)は ()(わた)らむそ
乎里安加之母 許余比波能麻牟 保等登芸須 安気牟安之多波 奈伎和多良牟曾(万葉仮名)二日応立夏節故謂之明旦将喧也 右一首 守大伴宿祢家持作之(漢文)(巻十八 四〇六八)
 夜が明けるまで、今夜は皆で酒を飲もう。霍公(ほとと)(ぎす)は、明日の朝になれば、必ず鳴き渡るであろう。』必ず鳴くと言うのは、四月二日は立夏である。(二日応立夏節故に、霍公(ほとと)(ぎす)は明ける(あした)()くと言う。(故謂之明旦将喧也)。つまり、「家持」は霍公(ほとと)(ぎす)の声を、明朝、聞く事を「理由」にして、「遊行婦女土師」らと共に、朝まで酒を飲み明かそう。と歌っている。「家持」は「遊行婦女土師」が「好み」なのである。
家持起訴される!)へ

次は、「遊行婦女蒲生(かまふ)」の歌である。
遊行婦女蒲生娘子歌一首(漢文)
(ゆき)(しま) (いわほ)()ゑたる なでしこは 千代(ちよ)()かぬか (きみ)(かざし)
雪嶋 巌尓植有 奈泥之故波 千世尓開奴可 君之挿頭尓(万葉仮名、巻十九 四二三二)
 『雪の島の(いわお)に植えた撫子(なでしこ)は、永久に咲いておくれ。あなたの(かざし)として。』撫子は貴方の簪(かざし)で、永久に咲いておくれ。」と言う。「遊行婦女蒲生(かまふ)」は「家持」が撫子」を忘れることがないのを何故か知っている。(大伴家持・亡き妾を悲傷する)へ
(注)この時代の「粋な男」は、季節の花を「(かざし)」として髪に指していた。(右の画を見てください)
 

 次は転勤のため「大伴旅人(家持の父)」が「大宰府(福岡県)」を去る時、大伴旅人一行を見送る遊行婦女児嶋(こじま)の歌、二首である。
(おほ)ならば かもかもせむを (かしこ)みと ()りたき(そで)を (しの)びてあるらむかも
凡有者 左毛右毛将為乎 恐跡 振痛袖乎 忍而有香聞(巻六 九六五)
 『貴方(大伴旅人)が普通のお方ならば、「このお別れ」に、あれもこれしたいのに、(おそ)れ多くて袖を振ることさえ出来ません。』袖が涙で濡れて重くなってしまい振れないと言う。この作者の「遊行婦女児嶋」は遊行婦女であるが故、大宰府長官の大伴旅人に歌も贈ることが出来ないで居る。何故なら長官転勤の送別である。大宰府の官吏など、多くの人々が見送っている中では、袖を振ることも、泣くことも出来なかった。しかし、別れの悲しさに我慢出来ず、遂に「遊行婦女児嶋」は袖を振るのである
大和道(やまとぢ)は 雲隠(くもがく)りたり (しか)れども ()()(そで)を 無礼(なめし)()ふな
大和道者 雲隠有 雖然 余振袖乎 無礼登母布奈(巻六 九六六)
 『都の大和への道は雲に隠れるくらい遠い。(それほど貴方と私の身分は違うが)私が振る袖を「無礼」と思って下さいますな。』雲隠りたりとは大宰府の長官と遊行婦女の身分の違いの意である。
 この日の大伴旅人一行は、大宰府を離れ、馬を「(みづ)()」に止め、庁舎(大宰府)を振り返る。遊行婦女児嶋」は、この別れの「あっけなさ」を悲しみ、もう二度と旅人と会えないのを歎き、涙を拭いながら耐え切れず、この「袖振りの歌」を吟じたのである。

 さてこれらの三人の遊行婦女は大和政権が公に編纂した万葉集に名を残している。謂わば、宮内庁の「歌会始め」の「詠み人」と同様である。
 ところで、「遊行婦女の類」は時代が下り、平安時代に「遊(あそび)」が淀川水系の神崎」に現れ、また、宿場町で春をひさぐ「傀儡女(くぐつおんな)」と呼ばれる娼婦が現れる。さらに、「白拍子」と言われる女性が居た。ちなみに「平清盛」は、「白河上皇」と「白拍子」との間に生まれたとする説もある。また「源義経」の妻の「静御前(しずかごぜん)」も「白拍子」である。
 「遊行婦女」、「白拍子」など、宴席で遊興に侍る女性を単に「男に春を売る女性」とは、とても言えない。なお、遊行婦女四人目の「遊行婦女左夫流児」は、万葉集に歌を残していない。(完)
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白拍子」上村松篁

万葉集全20巻朗唱の会の舞台
(富山県高岡市)

飛鳥の春・上村松篁
(この画は枝花の簪を髪に指そうとしている)
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