「ホーマー富山へ行く(X−2)」(荒城の月と富山城)

「荒城の月」作詞 土井晩翠  作曲 滝廉太郎

(はる) 高楼(こうろう)の 花の(えん) (めぐ)(さかずき) 影さして 千代(ちよ)の松が() わけ()でし 昔の光 今何処(いまいずこ)

(あき) 陣営(じんえい)の 霜の色 鳴きゆく雁の (かず)見せて ()うる(つるぎ)に 照り()いし 昔の光 今何処(いまいずこ)

 今 荒城の 夜半の月 変らぬ光 誰が為ぞ 垣に残るはただ(かずら) 松に歌うは ただ嵐

天上(てんじょう) (えい) 変らねど 栄枯(えいこ)は移る 世の姿 写さんとてか 今もなお 嗚呼(ああ)荒城の 夜半の月

荒城の月」(小林一男と八潮高等学校合唱部)

 ところで、歌詞の中の「秋 陣営」「植うる剣」「夜半の月」である。

さて、「荒城の月」を作曲した滝廉太郎は、明治時代の大分県の生れであるが、官吏の子息として日本の各地を転々とした。一時、家族で「富山城」の敷地内の官舎に住み、近くの尋常小学校で学んでいた。ところで、彼が「荒城の月」を作曲した感性を何処で得たかである。少年時代の記憶の影響が大きいと思われるが、富山城のそれが最も大きいと推測する。戦国武将の「佐々成政」の富山城の歴史が「荒城の月」の曲、及び、歌詞の、そこかしこにあると思うのである。(滝廉太郎は二十三歳で早逝している)羽柴秀吉は「本能寺の変」後、明智光秀、柴田勝家を下し、未だに富山城で反抗する「佐々成政」を討伐するため、天正十三年(一五八五年)八月八日、秀吉自ら大軍を率いて大阪を出、十二日後の八月二十日、富山城を包囲した。
 そこで、歌詞中の「秋陣営」「植うる剣」「夜半の月」である。「秋陣営」は、成政が降伏したのは八月二十九日頃で旧暦では秋であり、「植うる剣」は、戦である。「夜半の月」は、富山城の風景であろう。歌詞は「春」「秋」「今」「天上(空)」で始まり、世の移り変りを彷彿とさせる見事な歌である。

また、秀吉に攻められた成政の「富山城」と柴田勝家の「北ノ庄城(福井県)」が重なるのである。「柴田勝家」は「お市の方」と共に「北ノ庄城」で自害した。それは富山城攻めの二年前である。そして、成政は富山城では生き延びたが肥後(熊本県)へ移封され、その後、切腹を命じられ果てた。
「お市の方」の辞世の歌
『さらぬだに ()()るほども 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな』
 「そうでなくても、もう寝る時間の夏の夜の、(この世との)別れを誘うようにホトトギスが鳴いていますわ。」自害の直前に詠んだのであろう。臨場感があり、情景が思い浮かぶと共に、夜中に鳴くホトトギスが風雅で、また、淡々とした作風に「お市の方」の人となりが偲ばれる辞世の歌である。

「荒城の月」は、以上を参考に土井晩翠が作詞し、滝廉太郎が作曲したと思う。記録は見あたらないが、土井晩翠と滝廉太郎は、共に富山城と北ノ庄城を訪れたと推測している。
(写真旅紀行「北ノ庄〜柴田勝家・お市の方」)へ 「作詞家土井晩翠」へ
※参考「小さな資料室(資料297)」、「白鳥城」、「安田城」、「富山の役(えき)」、「書評史伝、佐々成政」、(植うる剣)へ

 右は「瀧廉太郎修学の地の碑(富山市丸の内一丁目五の八、富山城の東側、堺捨ビルの前)」である。碑と共に説明板があり、瀧廉太郎(一八七九〜一九0三)は、大分県の生れであるが、地方官であった父・吉弘(東京生まれ)と共に全国を転々とした。父が富山県書記官(副知事)であった明治十九年(一八八六年)八月から一年八ヶ月余りを富山城内の官舎で暮らし、尋常師範学校付属小学校の一学年から三年の半ばまで在学した。とある。
 この碑の廉太郎は袴姿で手に独楽(コマ)を持っている。廉太郎の生誕百年を記念して昭和五十四年(一九七九年)、彼の生れ故郷である大分県の九州人会「おきよ会」によって建てられたとある。
(注1)師範学校付属尋常小学校があったのは富山市丸の内一丁目五の八である。
(注2)彼は「荒城の月」、「お正月」、「雪やこんこん」の唱歌も作曲しているが、小学生時代を過ごした富山での生活を偲んで作ったそうである。<滝廉太郎について(月刊グッドラックとやま>

千歳(ちとせ)(ざくら)」の碑石(ひせき)(富山城址公園、松川添い)
 
 江戸時代の末期、富山藩前田利保(としやす)は、藩主の座を第六子の利友(としとも)に譲った後、嘉永二年(一八四九年)、新しく「東出丸(現在の桜木町一帯)」に「千歳御殿」を築いた。利保は「千歳御殿」に移り、御殿の辺りに桜を植えたので「千歳桜」と呼ばれた。やがてが老化し、昭和九年(一九三四年)、風雅会(不詳)は三十五周年を記念して新しく松川の堤に桜を植え碑を建てたが、今では富山県の桜の名所になっている
松川のまつのちとせをその名にて つつみのさくらとはにかをらむ
(田村直喜 昭和六十年 富山市之建)
 これは富山市の案内版である。しばらく歌の意味がわからなかった。確かに読みやすいが平仮名が多く意味が解らない。歌の作者も良くわからない。
  そこで平仮名を漢字に替えフリガナを付けて、少しは解かりやすいようにしてみた。
松川(まつかわ)の (まつ)千歳(ちとせ)を その()にて (つつみ)(さくら) 永久(とわ)(かを)らむ
 「松川の松の千年を、その名前にあやかるように、堤の桜(千歳桜)が、永久(千歳)に薫ってほしい。」千歳桜とは千年桜のことである。(千年桜の例、写真旅紀行「荘川桜」)へ
 「松川」の「松」と「待つ」とは掛け言葉であろう。歌の詠み人も富山の人々も桜の木が植えられるのを心待ちにしていた。「松の千歳」とは「千年松(待つ)」である。また、「千歳桜」、「千歳御殿」と、お目出度い「千歳」を使っている。歌は難解であるが思いがこもり、また、意味深い。
※この碑石は「松川茶屋(遊覧船乗り場)」の後方にある。(案内板が校正されることを望みます)
「松川」
 「松川」は元、神通川の本流であった。神通川は岐阜県高山市を源とする急流で、昔から水害の生じやすい川として知られている。かつて、神通川は富山城下や富山市中心部を蛇行して流れており、度々、氾濫して大きい被害をもたらしていたが、佐々成正も改修し、その後、明治の改修で本流は直線的に海へ流れるようになり、本流であった地域は埋立てられて平地となり、川幅は狭まって現在の「松川」となった。改修後は川添いの松並木にちなんで「松川」と呼ばれたが、今は「松」に替えて「」が植えられている。(昭和九年植樹)
 松川周辺には、桜橋通り、桜町、新桜町、桜木町の如く「桜」のついた町名が多い。また、江戸時代の神通川には、子舟を多数繋いで、その舟の上に板を渡して「橋」にしていた。それは「舟橋」と呼ばれていた。今も松川沿いに同名の橋があり、また、町名となっている。(船橋今町、舟橋北町、舟橋南町)

 ところで、富山城の城壁の新旧に差がある。元の城壁が凸凹(でこぼこ)なのに対して、新しい城壁は整然としている。旧い城壁は、とても「武者返し」の用をなさない。何故、旧い城壁がそうなのか理由を知りたいものである。
松川周辺)へ (阿尾城(氷見)と菊池一族
 
PROFILE


作詞家 土井晩翠
神戸のこといろいろ、Information」より

富山に居た「滝廉太郎
(富山城の東側)


富山市郷土博物館より

歌川広重(安藤広重)

松川の桜と千歳櫻の碑

織田信長傘下の猛将佐々成政
(富山城主⇒熊本城主)
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