『たまさかに、なお、たまゆらであろうとも・・・』
 「万葉ジョーク」への訪問を歓迎します。さて、辞書では「たまさか」とは「思いがけないさま。偶然であるさま」とある。万葉集の「たまさか」の例である。
たまさかに ()()(ひと)を いかにあらむ よしをもちてか また一目(ひとめ)()
玉坂 吾見人 何有 依以 且一目見(万葉仮名)(巻十一 二三九六)
 『思いがけなく出会った人に何としたことだ。どのようなきっかけでも作り、また、一目でも会いたいものだ。』
 また、玉響(たまゆら)」とは「時間の経過のごくわずかなさまをいう」とある。玉響(たまゆら)」は、玉と玉がぶつかり音がする。そして、その音が聞こえる「間(ま)」は、ほんの「一瞬」である
たまゆらに 昨日(きのふ)(ゆふへ) ()しものを 今日(けふ)(あした)に ()ふべきものか
玉響 昨夕 見物 今朝 可恋物(万葉仮名)(巻十一 二三九一)
 『昨日の夕方、ほんの一瞬、出会った人と、今朝になり、また会いたくなるものであろうか。』こんなこともあるものだなあ、不思議なことだよ。「たまゆら」は、万葉仮名で「玉響」と書く。二つの玉がぶつかると「コ〜ン♪」とか「カ〜ン♪」と響く音が聞こえる。読み方は「たまゆら」、または、「たまかぎる」であったと言われる。また「玉」は「魂(たま)」、もしくは、「霊(たま)」の意味もある。(「言霊(ことだま)Wikepedia」)へ
 また「琴線(きんせん)に触れる」という言葉がある。辞書では「良いものや素晴らしいものに触れて感銘を受けること。」とあるが、さらに詳しく「素晴らしい絵、音楽、文章などに、また、人やその人の心に触れて感銘を受けること。」と言う方がわかりやすいかも知れない。「島崎藤村」は「口唇(こうしん)に言葉ありとも、この心何か写さん。ただ熱き胸より胸の琴にこそうべきなれ。」と言う。つまり心は言葉で伝えることはできない。二つの心が互いの心の「琴線(弦)」を、共に鳴らして響き合うように伝えるべきである。と言っている。ところで万葉の歌は、まさに「歌」であり、また「音声」である。それを万葉仮名で書き残したのである。つまり、歌=音声文字で表現する始まりが万葉集日本最古の歌集である。勿論、この時代にレコードもテープもCDUSBも再生装置もない。それを文字のみで残したのである。万葉集とは
 そもそも万葉人が歌で表現していた「感情や情景(音、音声、文字、画、風景、思い、心根など)を今、現代の文字で伝えるのは至難であり不可能に近い。にもかかわらず、それにチャレンジするのがドンキホーテならぬ「私=井上二士夫」である。それを補うため音楽画像・映像を用いた。しかし勿論、これで充分などとは思わない。蛇足ながら文字のみで万葉の世界を言い現わすのは、全く不可能であると思う。

たまさかに なほたまゆらに あらふとも (ひと)()ふものか 今も昔も(井上二士夫作)
 『人と人はたまさかに出会い、それがたまゆらであったとしても今生の思い出となることもある。今も昔も・・・
 文字・言葉・音声・音楽は人が持つコミュニケーションツールである。このホームページでお会いする人と多少とも琴線に触れることを望みます。

(詩人)文章で思いを表す人は詩人であり、文章で感動させるのは優れた詩人である。また、文章で心を震わせたり涙を誘わせるのは、なお、優れた詩人である。
(感動)玉と玉がぶつかり音がするように心と心が共鳴すること。
 (注)玉響(たまゆら)をの氷の音で「水割り(歌詞)」へ 


玉響(たまゆら)」

琴の演奏 

(一目見しの一)
はだすすき ()には()()ぬ (こい)()がする 玉響(たまゆら)に ただ一目(ひとめ)のみ ()(ひと)(ゆゑ)
皮為酢寸 穂庭開不出 恋乎吾為 玉蜻 直一目耳 視之人故尓(万葉仮名)(巻十 二三一一)
 すすきの穂のように、咲いても人に知られず、私は恋をしています。玉響(たまゆら)に、ただ一目のみ見た人なのに。』あの人と、ほんの一瞬、目を交わしてから、私は、ずーっと、人に知られずに恋をしているのですよ。

(一目見しの二)
一目(ひとめ)()し (ひと)()ふらく (あま)()らし ()()る雪の ()えぬべく(おも)ほゆ
一眼見之 人尓恋良久 天霧之 零来雪之 可消所念(万葉仮名)(巻十 二三四〇)
 一目見た人に恋することは、霧のように粉雪が降り、(地面に落ち)すぐ溶けて消えてしまうのだわ。そう思いますのよ。』天霧(あまぎり)の如き雪のように儚い恋であることよ。美しい歌ですね。(完)
 また、玉響(たまゆら)については「ゆらぎとフラクタル」をどうぞ。
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忘れな草をあなたに
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