「武蔵野と高句麗・・・万葉集より」
 この武蔵野に万葉の歌がある。
高麗(こまに)(しき) (ひも)片方(かたへ)ぞ (とこ)()ちにける 明日(あす)()し ()なむと()はば ()()きて()
狛錦 紐片叙 床落邇祁留 明夜志 将来得云者 取置待(巻十一 二三五六)

 『(昨日の夜来て)今朝帰った男が忘れて行った高麗錦の紐の片方が床に落ちていた。明日の夜、ここへ取りに来ると言うなら、紐を返さずに待ってるわ。』(高麗錦の紐は一組で高価であった)つまり、忘れて行った紐の片方を必ず取りに来る。明日の夜もここへ来るように紐はわざと返さないわ。
高麗(こま)(にしき) 紐解(ひもと)()けて ()るが()に あどせろとかも あやに(かな)しき
巨麻尓思吉 比毛登伎佐気弖 奴流我倍尓 安杼世呂登可母 安夜尓可奈之伎(巻十一 三四六五)

 『高麗錦の紐を解き放って、寝ているのよ。もう他に何も出来ません。恋しくて恋しくて・・・。』これ以上脱ぐものがないのよ。後、何をしたらイイの?
高麗(こま)(にしき) 紐解(ひもと)()けて (ゆうへ)だに ()らざる(いのち) ()ひつつあらむ
狛錦 紐解開 夕谷 不知有命 恋有(巻十一 二四〇六)

 『錦の紐を解き開けて(素っ裸で)貴方を待っているの。夜まで命がないと思えるくらい焦がれていますのよ。
「高麗錦」
 
ところで、「高麗錦」は「高句麗人」の作る「錦」のことで華麗で高価であった。唐織(からおり)・綴(つづれおり)・金襴(きんらん)などがあり、現在、京都の西陣が産地である。

 高句麗人とは、中国東北部の松花江流域に住んでいた騎馬民族であり、朝鮮半島に進出し、約七百年間君臨していた。その後、唐と新羅の連合軍の攻撃により天智三年(六六三年)に滅亡した。乱を逃れた高句麗の貴族や僧侶などが多数、日本に渡り、甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野に住んでいたが、霊亀二年(七一六年)、高麗人千七百九十九人を埼玉県日高市に移し、高麗郡を置いた(『続日本紀』)。
 首長は高麗王「若光(じゃっこう)」であった。現在、埼玉県日高市・飯能市には、高麗神社、高麗川などの名が有り、その名残りを留めている。高麗錦は、高麗人が作る工芸品で、高麗紐、高麗錦、高麗袋、高麗畳縁などがある。

「高倉福信」
 高麗王「若光(じゃっこう)」の同族に「高倉福信」という人物がいた。この人は初め「背奈公福信(せなこうふくしん)」と名乗り、叔父の「背奈行文」を頼り上洛したという(『続日本紀』)。彼は相撲の名人で同輩と相撲を取ったところ評判を呼び、その武勇を知り「聖武天皇」に召されたという。天平勝宝元年(七四九年)、「孝謙天皇」に仕え、改姓し「背奈王福信」と名乗る。翌年、「高麗福信」と改める。その後、武蔵野守になり「武蔵国分寺」を完成させた。宝亀二年(七七一年)、武蔵国は東山道から東海道となる。宝亀十年(七七九年)、「高麗福信」から「高倉福信」と改姓した。延暦六年(七八九年)、死去。八十一歳。
 渡来人でありながら「孝謙(称徳)天皇」の側近として、また、橘諸兄、藤原仲麻呂、道鏡の各政権で要職を占めるも、失脚することなく桓武天皇の代まで活躍した異色の人物であった。子の「石麻呂」は武蔵介・美作介などを務めた。「高倉福信」は武蔵野の国の創始者と言える。(以上)

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高麗錦

万葉仮名歌碑(中西進氏揮毫)
(東京都日高市)


武蔵野の国古地図

高麗錦の織機とされる
(京都西陣織会館)
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