「法華経・・・海ゆかば」
 日本の仏教は、聖徳太子(厩戸皇子)により一層盛んになった。推古十四年(六○六年)、聖徳太子が「法華経」を講じたとの記事が日本書紀にある。(日本書紀巻第二十二、推古天皇十四年条)
 また、聖徳太子は推古二十三年(六一五年)、日本最古の書物の『法華義疏(ほっけぎしょ)(法華経の注釈書)』を著した。その後、「聖武天皇」の妃の「光明皇后」は、全国に「法華滅罪之寺」を建て、これを「国分尼寺」と呼び法華経を信奉した。また、「最澄(天台宗)」は、自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて法華経を至上の教えとし、明治維新まで皇室の崇敬を受けた。
 聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典の一つである。また、正倉院に法華経の一部が残っていることから古くから知られていたことが伺える。
 万葉集と仏教の関わりは、「聖武天皇」が国家鎮護の目的で仏教を広めるため天平十七年(七四五年)、盧舎那仏(るしゃなぶつ、奈良の大仏)の建立を始める。この盧舎那仏に用いる「金」の不足を憂慮されていた聖武天皇」は、天平二十一年(七四九年)、陸奥国(宮城県)に於いて「金」を産出した旨の知らせに喜び、東大寺と国民に対し「詔(みことのり)」を発せられた。この「詔」を受け、越中国司の「大伴家持」は、長歌一首と短歌三首を天皇に奏上した。その「大伴家持」の歌である。

陸奥(むつの)(くに)(くがね)(いだ)詔書(しやうしよ)()(うた)

(前略)大伴の (とほ)神祖(かむおや)の その()をば 大久米(おおくめ)(ぬし)と ()()ちて (つか)えし(つかさ)(うみ)ゆかば ()づく(かばね) (やま)ゆかば (くさ)むす(かばね) 大君(おゝきみ)の ()にこそ()なめ (かへり)みはせじ』言立(ことだ)て ますらをの (きよ)きその()を(後略)
 上の歌は「大伴家持」が「聖武天皇」の詔書に対し奏上した長歌の一部であり、これを引用して作られたのが大日本帝國海軍の「海ゆかば」であるが、軍国主義の象徴とされる「海ゆかば」と大伴家持の歌に違いがある。大伴家持は大伴氏代々の「天皇近衛兵」としての「覚悟」をこの歌にしたため、天皇に奏上したのである。「天皇近衛兵」として「大君の辺にこそ死なめ」は大伴一族の「覚悟」であり、また、「武士(もののふ)」としての「忠義」である。
 時代は下り、大日本帝國の軍部は大伴家持の歌を引き合いに出し、一兵卆に至る全ての兵士に「忠義」を求めたのである。
(大伴氏については大伴氏の歴史を参照)
 ところで此の頃、大和朝廷は東北支配のため「多賀城(宮城県)」を築いていた。「多賀城」は「陸奥国」を治める国府としての役割に加え、陸奥、出羽両国を管轄する広域行政府であり、さらには北方の「蝦夷(えぞ)」と呼ばれる人々を大和朝廷の支配下に組みこむための拠点でもあった。軍事面では「鎮守府」、また、行政面では「陸奥国府」として、西の「大宰府(福岡県)」と共に重要な役割を果たしていた。
 このように「多賀城」は八世紀の東北地方において重要拠点であった。その後、家持は、この歌を作った越中から帰京の後、因幡(鳥取県)、また、薩摩(鹿児島県)へ赴任し、そして、最後の赴任先である「多賀城」へ行き、ここで没することになる。

 海ゆかば歌、藤山一郎

 ところで次の歌は、戦に行く男に、ある「娘子(むすめご)」が詠んだ歌である。

(きみ)がむた ()かましものを (おな)じこと (おく)れて()れど ()きこともなし
君我牟多 由可麻之毛能乎 於奈自許等 於久礼弖乎礼杼 与伎許等毛奈良之(万葉仮名)(巻十五 三七七三 娘子作)
 『貴方と一緒に行けばよかった。同じことです。残っていても良いこともないのだから。』「むた」とは共にの意。

()背子(せこ)が (かへ)()まさむ (とき)のため (いのち)(のこ)さむ (わす)れたまふな
和我世故我 可反里吉麻佐武 等伎能多米 伊能知能己佐牟 和須礼多麻布奈(万葉仮名)(巻十五 三七七四 娘子作)
 『貴方が帰って来られる時のために命を残しておきますわ。わたしを忘れないでください。』「命残さむ」とは、死なずに待っていますの意。ともしび(ロシア民謡)

(注)海ゆかば」は、軍歌と言うより鎮魂歌とも言える。
 ところで、
「法華経」が書き表されたのは、釈尊滅後から約五百年以上の後とされ、紀元前五十年から百五十年の間であるとされる。「法華経」は、他の仏教経典と同様、釈迦(ゴータマ・シッダールタ)が直接書き表したのではなく、彼の説教を弟子が、「経」として書き残したのである。また「法華経」そのものに「外道の論議を説くと謂わん(言われる)」とあり、釈迦は「法華経は信じられ難く、また、外道であると誹謗(非難)する人が多くなる」と予言している。これは法華経の「方便品(ほうべんぼん)」の中に
未曾有法難解難入意趣難解難解之法第一稀有とあり、「法華経」は未曽有の経である、しかし、解りにくく、入り(信じ)難く、その意が難解であり、また、難解であるが第一稀有の経である。と、釈迦自らが説いたと、「法華経」そのものに書き残されている。(完)
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高岡市万葉歴史館

領布振りの別れ

大伴家持の長歌と短歌三首
陸奥
(むつの)
(くに)より(くがね)()
詔書(しやうしよ)()く歌一首、(あわ)せて短歌

葦原(あしはら)の 瑞穂(みづほ)(くに)を 天降(あまくだ)り ()らしめしける 皇祖(すめろき)の (かみ)(みこと)の 御代(みよ)(かさ)ね (あま)()(つぎ)と ()らし()る (きみ)御代(みよ)御代(みよ) ()きませる ()()(くに)には 山河(やまかは)を (ひろ)(あつ)みと (たてまつ)る 御調(みつき)(たから)は  (かぞ)()ず ()くしもかねつ (しか)れども ()大君(おほきみ)の 諸人(もろひと)を (いざな)ひたまひ ()きことを (はじ)めたまひて (くがね)かも たしけくあらむと (おも)ほして (した)(なや)ますに (とり)()く (あづま)(くに)の 陸奥(みちのく)の 小田(をだ)なる(やま)に (くがね)ありと (まう)したまへれ 御心(みこころ)を (あき)らめたまひ 天地(あめつち)の 神相(かみあひ)うづなひ 皇祖(すめろき)の 御霊(みたま)(たす)けて (とほ)()に かかりしことを ()御代(みよ)に (あら)はしてあれば ()(くに)は (さか)えむものと (かみ)ながら (おも)ほしめして もののふの 八十(やそ)(とも)()を まつろへの ()むけのまにまに 老人(おいひと)も (をみな)(わらは)も しが(ねが)ふ (こころ)()らひに ()たまひ (をさ)ためへば ここをしも あやに(たふと)み (うれ)しけく いよよ(おも)ひて 大伴(おほとも)の (とほ)神祖(かむおや)の その()をば 大来目(おほくめ)(ぬし)と ()()ちて (つか)へし(つかさ) (うみ)()かば ()()(かばね) (やま)()かば (くさ)()(かばね) 大君(おほきみ)の ()にこそ()なめ (かへり)みはせじ と(こと)()て ますらおの (きよ)きその()を (いにしへ)よ 今の(をつつ)に (なが)さへる (おや)()どもそ 大伴(おほとも)と 佐伯(さえき)(うぢ)は (ひと)(おや)の ()つる(こと)()て (ひと)()は (おや)()()たず 大君(おほきみ)に まつろふものと ()()げる (こと)(つかさ)そ (あづさ)(ゆみ) ()()()ちて (つるぎ)大刀(たち) (こし)()()き 朝守(あさまも)り (ゆふ)(まも)りに 大君(おほきみ)の 御門(みかど)(まも)り (われ)をおきて (ひと)はあらじと いや()て (おも)ひし()さる 大君(おほきみ)の 御言(みこと)(さき)の ()けば(たふと)み(巻十八 四0九四)(高岡市万葉博物館)へ

ますらをの (こころ)(おも)ほゆ 大君(おほきみ) 御言(みこと)(さき)の ()けば(たふと)(巻十八 四0九五)(高岡市万葉博物館)へ

大伴(おほとも) (とほ)神祖(かむおや) (おく)() (しる)(しめ)() (ひと)()るべく(巻十八 四0九六)(高岡市万葉博物館)へ

すめろきの 御代(みよ)(さか)えむと (あづま)なる 陸奥山(みちのくやま) (くがね)(はな)()(巻十八 四0九七)高岡市万葉博物館)へ

(漢文、及び、万葉仮名)
賀陸奥国出金 詔書歌一首 并短歌
葦原能 美豆保国乎 安麻久太利 之良志売之家流 須売呂伎能 神乃美許等能 御代可佐祢 天乃日嗣等 之良志久流 伎美能御代〃〃 之伎麻世流 四方国尓波 山河乎 比呂美安都等 多弖麻都流 御調宝波 可蘇倍衣受 都久之毛可祢倍都 之加礼騰母 吾大王乃 毛呂比等乎 伊射奈比多麻比 善事乎 波自米多麻比弖 久我祢加毛 多之気久安良牟登 於母保之弖 之多奈夜麻須尓 鶏鳴 東国乃 美知能久乃 小田在山尓 金有等 麻宇之多麻敝礼 御心乎 安吉良米多麻比

天地乃 神安比宇豆奈比皇御祖乃 御霊多須気弖 遠代尓 可々里之許登乎 朕御世尓 安良波之弖安礼婆 食国波 左可延牟物能等 可牟奈我良 於毛保之売之弖 毛能乃布能 八十伴雄乎 麻都呂倍乃 牟気乃麻尓々々 老人毛 女童児毛 之我願 心太良比尓 撫賜 治賜婆 許己乎之母 安夜尓多敷刀美 宇礼之家久 伊余与於母比弖 大伴乃 遠都神祖乃 其名乎婆 大来目主等 於比母知弖 都加倍之官 海行者 美都久屍 山行者 草牟須屍 大皇乃敝尓許曾死米 可敝里見波 勢等許等大弖 大夫乃 伎欲吉彼名乎 伊尓之敝欲 伊麻乃乎追通尓 奈我佐敝流 於夜乃子等毛曾 大伴等 佐伯乃氏者 人祖乃 立流辞立 人子者 祖名不絶 大君尓 麻都呂布物能等 伊比都雅流 許等能都可左曾 梓弓 手尓等里母知弖 剣大刀 許之尓等里波伎 安佐麻毛利 由布能麻毛利尓 大王乃 三門乃麻毛利 和礼乎於吉弖 且比等波安良自等 伊夜多氐 於毛比之麻左流 大皇乃 御言能左吉乃 一云乎聞者貴美 一云貴久之安礼婆
天平感宝元年五月十二日 於越中守館大伴宿祢家持作之(巻十八 四0九四)

反歌三首
大夫能 許己呂於毛保由 於保伎美能 美許登乃佐吉乎 聞者多布刀美(巻十八 四0九五)
大伴乃 等保追可牟於夜能 於久都奇波 之流久之米多弖 比等能之流倍久(巻十八 四0九六)
須売呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知乃久夜麻尓 金花佐久(巻十八 四0九七)


大伴家持像(ワシモ@鹿児島より
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