「阿尾城(氷見)と菊池一族」(佐々成政抹殺と御陣乗太鼓)

 阿尾城跡は富山湾に面し、標高二○〜四○メートルの丘陵にある。発掘調査では二の丸、三の丸から中世の土器や陶磁器が多数出土した。また本丸には、櫓(やぐら)があったとされ、ここで、海上交通を監視していたと思われる。出土遺物からは十五世紀後半に城としての利用が始まったと推定される。天正・文禄年間には
「菊池右衛門入道(武勝)」「十六郎(安信)」の父子が居城していた。「氷見菊池一族」は、当初、織田信長子飼いの「佐々成政」に従うが、後、同じく織田信長子飼いの「前田利家」方へ寝返り一万石を安堵された。一万石とは大きい。ちなみに、この「氷見菊池一族」は、肥後(熊本)が出自である。
 その後、織田信長が本能寺で死ぬと、「佐々成政」と「羽柴秀吉・前田利家」が対立し、「佐々成政」は「羽柴秀吉・前田利家」に屈伏して肥後(熊本)へ移封され、その後、失脚する。阿尾城は秀吉時代の慶長年間(一五九七年頃)に廃城となり、「氷見菊池一族」は阿尾城から去り、加賀(金沢)へ行く。そして「佐々成政」は、「前田家」に依り「黒百合伝説」などの悪評を立てられる。
 「佐々成政」の肥後(熊本)での失脚は、「前田家」と「氷見と肥後の菊池氏」の謀略ではなかろうかと思っていたが、それと推測できる資料(人物経歴)を富山市郷土資料館から入手した。その資料は、「加能郷土辞彙」(北国新聞社、昭和三十一年発行)の一部であった。ちなみに、「加能」とは、加賀と能登のことである。その中の「氷見菊池一族」の人物経歴であるが、解かりにくいので要点を記す。富山城と荒城の月)へ

「菊池右衛門入道(武勝)」
 別名、菊池武勝のこと。肥後(熊本県)の菊池一族の末裔であり、兄の武平と共に肥前(長崎県)に居たが、武平が戦死して後、筑前(福岡県)、薩摩(鹿児島県)を流浪し、上杉謙信の家来となり、越後(新潟県)へやって来た。ここで、謙信と敵対する織田信長に対し功があり、氷見郡阿尾(富山県氷見市)を得、阿尾城の城主となった。やがて、謙信が没し、信長配下の佐々成政が越中(富山県)の領主となると「菊池武勝」は成政に従属する。そして、信長が本能寺で亡すると、前田利家は成政の勢力を弱めようと策略した。そこで、利家は「菊池武勝」へ書状を送り、成政側が良いか、利家側が良いかの利害を述べた。やがて、利家は菊池武勝に誓紙を与えたところ、武勝は利家に帰順した。
「菊池安信」(別名、十六郎)
 「菊池武勝」の実子。通称、十六郎と言う。「氷見菊池一族」を継いで、氷見郡阿尾の領主となり、一万石を前田家から安堵される。利家の九州と関東の戦いに前田軍の先鋒を勤めたが、父(菊池武勝)より先に没した。
「菊池大学」(後の別名、十六郎)
 菊池安信の没後、菊池武勝の養子となり十六郎と改名する。大阪冬の陣に馬廻頭として出陣したが、大阪夏の陣で病を得て元和三年、没。
「菊池武直」(後の別名、十六郎)
 菊池大学の子。父大学の没後、俸禄千二百石を継ぎ、町奉行から馬廻頭となり、公事場奉行、算用場奉行を歴任し、俸禄三千石となる。通称、大学・十六郎と称す。天和元年没。七十三才。
「菊池武康」(後の別名、十六郎)
 菊池武直の養子となり十六郎と名を変える。前田家当主の前田綱紀(第四代)に仕え、後に、御算用場奉行、公事場奉行、江戸御留守居役となる。(注)氷見菊池一族の出世頭である。

 これら五人の「氷見菊池一族」は、いずれも前田家に重用されている。氷見菊池氏初代の「菊池武勝」は、阿尾城主となった。彼は肥後菊池氏の末裔であり、秀吉の越中「佐々攻め」の後、成政が越中から肥後へ移封され、後、成政は肥後での失政を秀吉に咎められ、秀吉の命により切腹させられる。
 前田家は、加賀(石川県)を本拠地とするが、越中の高岡城(高岡市)と富山城(富山市)と、その領地を経営するに、先の統治者であった成政の悪評(黒百合伝説)を流したのも、また、成政の肥後の失政も肥後を出自とする氷見菊池一族の策謀ではないかと推測する。戦国時代である。一族が生き延びるため、夫々、多々の遠謀や策謀を弄したであろう。また、加賀百万石を江戸時代を通じ、徳川の外様でありながら明治維新まで存続させたのは氷見菊池一族に依るところが大きかったと推量する。(富山県の城)(氷見市
 ところで、「加能郷土辞彙」(北国新聞社、昭和三十一年発行)には、菊池次郎兵衛、菊池大学、菊池右衛門入道(武勝)、菊池武直、菊池武康、菊池提要、菊池信次、菊池安信、菊池六右衛門の九人「氷見菊池一族」が記されている。先程は解かりにくいので要点のみにしたが、初代の菊池右衛門入道(武勝)を再度、詳しく記す。
 「菊池右衛門入道(武勝)」は、肥後(熊本県)の人、「肥後菊池氏(十二代当主菊池武時)」の末裔。武勝は幼少にして兄の武平に従い肥前(長崎県)の高来に居たが、武平が戦死したので、筑前(福岡県)、薩摩(鹿児島県)等を流浪し、永禄年間の初め、上杉謙信に属し、越後(新潟県)に移り住む。謙信と競う織田信長に対し、功績があった為、氷見郡阿尾を得て、その城主となり、佐々成政が越中を領するや、その与力となり、天正十二年の「末森の役」の後、前田利家は成政の勢力を殺(そ)ごうとし、天正十二年十一月八日、書を菊池右衛門入道(武勝)に送り、向背(こうはい、味方になるか敵となるか)の利害を諭(さと)した。この交渉は次第に進み、天正十三年七月四日、利家から武勝に対して講和の条件を示し、同月二十八日には誓紙を与えて、遂に帰順に至った。そこで、武勝は長男の菊池安信(十六郎)と共に、氷見郡阿尾の一万石の領主となった。ところが、慶長元年に菊池安信(十六郎)が没したため、利家に養子の菊池大学を跡継ぎとするよう命ぜられたが、武勝は「入道の身を以て世事に当たるを好まず」とし、閑月斎と号し、京都紫野に籠居(家に閉じこもって出ないこと。閉居、謹慎)した。慶長十一年(1606年)没。(年齢不詳、生年1530年頃)しかし、その氷見菊池家の名跡を継いだのは、菊池大学(後、十六郎と改名)である。
 この氷見菊池家初代の「菊池右衛門入道(武勝)」は、熊本県(肥後)の生まれで、肥後菊池氏出である。熊本に生まれ、長崎、福岡、鹿児島と移り、新潟県へ来ている。その後、富山県氷見で領主となる。その主君は、上杉謙信、佐々成政、前田利家と替えている。最後に仕えた前田利家は、武勝に相当の気遣いを見せて味方に引き入れている。また、氷見菊池家の跡継ぎに関して利家の命令に背くかのように、閑月斎と称し、京都紫野に住居を移した。武勝はその流浪の経歴からして、したたかで、かつ、硬骨漢であったと思う。また、西郷隆盛は、肥後菊池氏の出とされる。(西郷隆盛菊池源吾と一時、名のっていたことがある)

 ところで、越後の上杉謙信は、越中を通り上洛を試みたが遂に果たせなかった。(ただし、軍勢を率いない上洛は除く)これは、一向宗徒(浄土真宗)を始め越中勢の強い抵抗があったためである。謙信の上洛を阻止したのは、武田信玄の一向宗徒への働きかけである。この一向宗徒の抵抗が最も大きく、その為、謙信勢は能登半島を迂回しようとした。しかし、それも撤退を余儀なくされる。阻止したのは「御陣乗太鼓」である。これに「氷見菊池一族」が関わっていたと思える。(上杉謙信、七尾城攻略時の漢詩)へ
 能登半島の珠洲郡鹿野村(石川県珠洲市)の「菊池六右衛門」である。六右衛門は十代目まであり、当地の名家である。九代目の六右衛門は、幼名は万吉であるが、後、武九郎と改名している。「氷見菊池一族」の初代菊池武勝を一字使っている。武九郎は算法を習い、また、諸術に通じ傑物であった。また、十代目六右衛門は、郷里の山河を測量し、鹿野村「肝煎り」となり、明治八年(1876年)に五十六歳で没した。とある。但し、初代菊池六右衛門の生年と没年は定かでないが、十代目六右衛門の没年から、仮に一代三十年とすれば、1876-300=1576頃の生まれと計算出来る。御陣乗太鼓の始まりは、天正五年(1577)で初代菊池六右衛門の時代である。

 ところで、「菊池右衛門入道」(菊池武勝)は、生地の肥後から各地を流浪した後、上杉謙信の家来となり、謙信に敵対する織田信長に対し功があり、阿尾城(富山県氷見市)の城主になったとあるが、全て謙信に服従していたとも思えない。その子の「菊池安信」(十六郎)も然りである。
 ここで、「御陣乗太鼓」である。その謂われは、天正五年(1577年)、能登に攻め込んだ上杉謙信勢を、村人達が鬼面や海草を付け「陣太鼓」を鳴らして驚かせて追い払ったのが起源とされる太鼓である。

(以下は新聞記事より)
 父がたたく太鼓を子がまねる。孫があこがれる。輪島市名舟町の御陣乗太鼓はそうやって受け継がれてきた。夜叉(やしゃ)や幽霊、爺(おきな)の面をつけ、古着姿でたたく。
 戦国の世、上杉勢が攻め入った折に村人が木の皮で作った面をかぶり、太鼓をたたいて追い払ったのが由来とされる。名舟大祭で奉納されてきた。池田庄作(九十一才)(左)「三文のうても意気地が大事」。前は海、後ろは山の集落で「お金はなくても気持ちで叩け」と伝えてきた。池田を「おやじのような存在」という浜高悦朗(七十一才)は「その言葉を体で表すような太鼓だった。」と目に浮かべる。「テンポがよく独特の間。濁りのない小バイ(打ち方)のリズムだった。小柄ということを感じさせず、キレが良かった。」
 池田は昭和四十年代初めから三十年以上、保存会事務局長を務め、指導はもちろん御陣乗太鼓の名前を全国に広める立役者になった。池田は言う。「人が見てるのに、ごまかすような太鼓はダメ」。力の出し惜しみは許さなかった。思いは選手会と呼ばれる演技者の体に流れる。一九九九年に池田から事務局長を受け継いだ北岡周治(五十四才)は「他の和太鼓が音楽なら、御陣乗太鼓は泥くさい伝統芸能」と語り、強い自負をのぞかせる。
(以上、中日新聞より抜粋

 この「御陣乗太鼓」は、兵を損なわず、また、戦費も使わず敵(上杉謙信勢)を追い返した。これも「氷見菊池一族」の戦国時代を生き抜いた、したたかさの証であるのかも知れない。(完)なお、下の氷見市阿尾跡から見る立山連峰は永芳閣女将の提供である。(2012.11.28記)TOP


阿尾城遠景

熊本城

御陣乗太鼓実演(舞台にて)
(第15回日本全国太鼓フェスティバル、約11分)


御陣乗太鼓実演(浜辺にて)
(無形文化財)
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